2024/06/28 08:00
【牛の幸せについて考えるとは?】
私が牛飼いを始めた15年ほど前と比べると、最近は若い人たちを中心に、SDgsなどの環境問題を中心として、家畜福祉(アニマルウェルフェア)への関心が高まっていることを実感しています。おかげさまで、宝牧舎の「牛の幸せを考える牧場」に「共感」を頂ける人も増えて、家畜福祉への取り組みを「評価」頂くことも少なくないです。でも実は、その共感や評価のほとんどが「同情」なのではないかと思っています。それは、その多くが「かわいそうですね。」「いいことやってますね。」と言ったものだからです。もちろん、その共感や評価が例え同情であったとしても、牛の幸せを考えるという入口であることは間違いないのですが、それだけでは「牛の幸せを考える。」ことにはならないと思っています。
【動物愛護と家畜福祉は何が違う?】
私は、動物愛護と家畜福祉の違いについて、動物愛護に取り組んでいる方々に教えて頂きました。私なりの理解では、動物の愛護は感情、家畜の福祉は科学であり、人間は感情的かつ論理的な動物でもあるので、愛護と福祉は相反ではなく、相互作用するものと考ました。私は、捨て犬を「かわいそう。」と思って自宅で飼おうとすることは、「いいこと。」だと思います。でも、それが「捨て犬にとって」良いことかは分からないし、そもそも分かるはずがない!と考えると、その分かるはずのないことを「科学的」に考えることが福祉なのだと気づきました。
【牛の幸せを科学的に考えるとは?】
そして私は、「牛の幸せ」を自分なりの科学で考えてみたのですが、いくつかの矛盾に行きつきました。どんなに牛の幸せを考えたとしても、最終的に人間の食べ物となる運命である牛の幸せは、存在しないのではないかということです。自分のことに置き換えたら、「あなたは最終的には食べられる運命だけど、できるだけ幸せになれるように考えるよ。」ということかなと。それでも、「せめて生きている間だけでも幸せに生きてほしい!」で良いという考え方もありそうですが、そうなるともはや科学ではなくただの感情ですよね。
【牛の幸せを何となく考えてみた。】
実は私自身が(家畜である)「牛の幸せはない。」と考えていました。牛の幸せを考える牧場の主としては完全に失格ですが、だからこそ誰よりも牛の幸せを考えてきたつもりです。そこで行き着いた1つ目の答えが、「有難く頂く。」ということです。お肉として有難く食べてもらうことが(家畜である)牛の幸せだということです。でも待てよ、それってただの自己満足だよなというところで、2つ目の答えを考えているところです。まだうまく言葉にはできないのですが、牛だって自分の幸せだけ考えて生きていないと思うし、自分の子や仲間の牛たちの幸せも考えるだろうから、この世に残された牛たちやこれから生まれてくる牛たちにも、「今よりもましな」幸せを届けられたらと考えています。
【牛たちの幸せがなぜ私たちの幸せになるの?】
(現在の)宝牧舎のビジョンは、「牛たちの幸せが私たちの幸せになる社会をつくる。」なのですが、掲げた本人が一番理解できていないのが恥ずかしいです。自分なりに説明すると、現代の畜産は、「人間の幸せのため、家畜の幸せを犠牲している。」が、未来の畜産は、「家畜の幸せのうえに、人間の幸せがある。」といった感じです。やっぱり良くわからないですね。それでも続けると、牛とのふれあいを通じた自分自身の心理的な幸福感もあれば、お肉を頂くことを通じて家族の会話を円滑にすることもできるはずです。牛の幸せを考えることは、野生の動物や植物だけでなく、微生物やウィルスといった多様な自然への興味が深まったり、世界の戦争や貧困などあらゆる生命への関心を深めるきっかけになるとも思っています。なぜなら、私自身が牛の幸せを考えることでしか、自分の幸せを実感できないからです。